日経社説 NHK判決の「期待権」に懸念

 メモ、と。

 判決は憲法で保障された表現・報道の自由を尊重して「取材を受けた側が何らかの期待を抱いたとしても、それによって番組の編集が不当に制限されることがあってはならない」とクギを刺している。
 しかし一方で、取材の過程などに照らして「番組内容に期待を抱くのもやむを得ない特段の事情」があれば期待権が生じ、編集の自由が制約を受けるとの解釈を打ち出した。

 このあたりが乙。

 「将来一定の事実が発生すれば一定の法律上の利益を受けられるであろうという期待をもつことができる地位」(有斐閣法律学小辞典』)である期待権には様々な種類があり、どの程度強く保護されるかも異なる。表現・報道の自由と競合する期待権は認めるにしても、極めて厳格な条件を付けるべきだ。

 ま、報道においてそういう期待権がどう成立するかだけど。

読売社説 [閣僚の問題発言]「タガの緩みが尋常ではない」

 久間防衛相は、昨年暮れ、米国などのイラク開戦の際、日本政府が公式には支持を表明していなかったと発言した。ところが、開戦支持の閣議決定が行われていたことを指摘されるや、「不勉強だった」と発言を撤回した。

 まあ、これにはまいったねだが、そう騒ぐことでもないでしょ。

朝日社説 「産む機械」 少子化対策が心配だ

 ある意味、邪悪な名文と言ってもいいな。隙を見せて隙がない。この手の罠には突っ込まないが。

 問題は言葉遣いにとどまらない。子どもの数が増えないことを女性だけの問題ととらえているのではないか。女性ががんばれば、子どもは増える。そんな考え方が発言ににじむ。

 とかいうなら。

 女性たちの思いに耳を傾け、地に足のついた少子化対策を進める。それができないなら、退場してもらうしかない。

 そういう締めじゃないはずだろ、くらいは言っておこう。
 本当は非モテの現実みたいな現実がある。
 語ることというか時代の、論説の文法が、現実に子をなし得る世代の実態を覆い隠しているというか、実態を語らせないように機能している。
 先日BBCだったか、35歳のシングル女性の決断という番組があった。まだ見終えていないが、彼女たちの幾人かは子供を産むために人工授精を決断する。母に成らなければ自分の人生は完結しないというもの凄い直のメッセージがあって面食らったが、実は庶民の実生活を支えているのはあのエネルギーだ。
 大衆が秘めている本当の力というのは言葉では語られないようにできている。

以前にも書いたと思うけど奨学金のこと

 ⇒大学のこと

卒業したら、20年近くかけて奨学金を返さなければならない。
20代前半にして何百万も借金を作ってしまった。
覚悟はしていたものの、具体的な額を見たら、さすがに眩暈がした。
でも、これで良いのだ、この四年間で、それに見合うだけの経験が出来たはずだから。
そう納得しようとしていたところだった。

 私は返却終えてとても寂しかった。
 毎年毎年年末まとまったカネを返した。これをクリスマスに充てられたらとか若いときは少し思ったし、インフレ時代に育ったせいか金利を低くするようにできるだけ早急に返してしまった。借金は嫌だったし。
 でも、終わったら、空虚だった。年が終わるころ、奨学金返済に充てるカネ残しておこうという気持ちは長いこと、なんというか、青春からエールをもらっているような気がした。
 学生時代はよく勉強したつもりだったが、まるで足りない。
 社会に出たら、Reading assignmentsもReportsもなくなった。自分で勉強するしか勉強するノルマはない。自堕落に学ぶようになった。好き勝手なことを学ぶようになった。そんなものを学んでいいのかという領域まで手を伸ばした。空しいと言えば空しい。良かったか悪かったかわからない。
 食い物と遊びをけちって本を買って読んだ。でも、たぶん、ほとんどは結局空しかったのだろうと思う。

奨学金も借りず、親からたっぷりの仕送りを貰い、
自分なら勉強しなくても入れるような三流の私立大学に通っている人がいる。

 私はそれについてはまるでなんとも関心がない。
 ちょっと露骨にいうとできるだけそういう人とは会わないようにしていた。というか、経験的に会わないようにするようになった。妙にしんどい。
 私は友情とか親密さかが苦手な人でもある。インテリジェンスとか知識とかより心が大切だというのはわかるのだけど、現実の場面では、なんか心の宗教みたいな倫理観が醸し出されると引く。
 イヤミのように聞こえるかもしれないけど、東大とか一流私学とか出の人のほうが、話していて楽だ。知的なフォローしなくていいし、変なコンプレックスのリアクションに配慮しなくていい。ただ、東大さんはけっこう彼ら自身が屈曲していて、それはそれでちょっと引いた。
 ⇒大学のこと 2
 発言者、女性とのこと。

しかし私の周りには、男性を学歴で判断する人が、意外と多い。
ここでの判断というのは、恋愛対象となりうるか否か、である。

 女性が男性を学歴で判断するというのは、これも身も蓋もなく言うと、そういう女性を避けた方がいいのだが、これには二つある。いわゆるブランド学歴で男を選ぶのは即避けろだが、そうではなく女性もある知的水準を男性に求めてしまうのをしかたないなと思っているふうはある。
 日本社会の場合は、実際には学歴というのは、お家の階級なのだ。慶応出にはそれに類する叔父様や叔母様がこねこねくっついているのである。むしろ東大にはそれがないこともある。田舎の秀才というか。で、階級社会の日本を見たら、官僚になるしかないかと思うし、忠誠しているといい嫁さんが貰えるようにできている。
 学歴なんてお家の階級の従属なのである。だから、お嬢さんたちは、お母様の言うこと以前に趣味に従っていたらその階級が継続する。相手の学歴なんか考える意味すらない。相手の学歴とか言っている自体、すでにべた負け。
 ついでに言うと、非モテ男性とかだけど、これはわかる面とわからない面があって、ま、ま、いっか略。

もちろん前世とか信じない

 のだが、それを感じることはある。もちろん、感じるから信じることはない。特定の歴史事象に既視感がある。よくわからない。
 もう一つ。歴史に対するある関心が基本的に何かを志向していて、その志向というか欲望というのを、なんつうか、ま、こにょこにょ考えてみると、それが自分の前世だったという仮説を立てると案外説得力がありそう。
 まあ、もちろん、前世とか信じない。
 というか、生まれ変わるということはどういうことかというのを、どういうスタイルで語るのかよくわからない。たぶん、文学だろう。
 例えば、サリンジャーのこれ。
 ⇒「 サリンジャー選集 (別巻1) ハプワース16、一九二四: 本: J.D.サリンジャー,原田 敬一」
 を一連のサガの集大成として読むと奇妙に納得するし、これはいったいなんなんだと思う。
 というか、ハプワース16をきちんと理解しないと、実は、 ナイン・ストーリーズが理解できたことにならないのではないか。
 ⇒「 ナイン・ストーリーズ―Nine stories: 本: J.D.サリンジャー,J.D. Salinger」
 とかいいつつ、では、「ハプワース16、一九二四」からどうやってサリンジャーを再構築するか、というか、そんなことをしても狂人でしょみたいになる。
 批評的には、比喩なんだと言えないこともない。
 サリンジャーがいかれていたと考えるのが取り敢えずは妥当。
 ⇒J・D・サリンジャー - Wikipedia

"Hapworth 16, 1924"(1965)
現在までに公表されている最後の作品で、ニューヨーカー誌に掲載された中編小説。アメリカでは今日まで単行本化されていない。数年前、単行本化が実現しかかったが、事前に書評家 ミチコ・カクタニによる酷評が雑誌に掲載され('From Salinger, A New Dash Of Mystery,' The New York Times, February 20, 1997)、これにショックを受けたサリンジャー自らが企画を取り下げたと言われている。同書の日本語訳は入手可能 (『サリンジャー選集(別巻 1) ハプワース16、一九二四』 荒地出版社、1978年、原田敬一訳)。

 一般的には、英米圏では、事実上、よほど文学研究でないかぎり、「ハプワース16、一九二四」に触れることはできない。
 現状のサリンジャー(存命)から考えると、続編の原稿を抱えている可能性はある。
 酷評に怯えたところにサリンジャーが生きていることを痛みのように感じる。
 私は、死ぬ前に読みたい、数少ない幻の小説でもある、もし、それが存在するなら。
 が、このあたりの問題は難しい。
 この謎は、ある程度、結局、「ハプワース16、一九二四」に影響された自分の人生だったかなという感じもするから。
 というか、別の形で、あの世界を書いてみたいと思うことはある。

シュタイナーの本はほとんど棄ててしまったが前世について良いことを言っていた

 これだったか違ったかとも思うが。西川訳じゃないのはガチっぽい。
 

cover
いかにして前世を認識するか: ルドルフ シュタイナー,Rudolf Steiner,西川 隆範
 シュタイナーは、人は前世とまったく逆の性質・性格になるとか言っていて、面白かった記憶がある。例えば、前世が数学者の人は今生では数学がまったく苦手になる、といった感じ。
 全体性への獲得プロセスだったからか。よく覚えてないが。
 いずれにせよ、前世が貴族だった人は、今生は、乞食な、シュタイナー的には。
 シュタイナーを誤解している?
 もちろん、理解してないんだもの。

これなんだけどね、イスラム

 これ⇒はてなブックマーク - アラブイスラム学院での講演1
 率直な感想をいうとそれほど面白くはなかった。

日本人ムスリムイスラムを学び、強い信仰心を養ってゆくには、家族や飲み仲間、ハラーム食品といったものの代わりとなるコミュニティが必要です。

 訳がちょっと文法的に変みたいだけどそれはさておき。
 ここでいう、強い信仰心というのは、iman なんですよ。英訳なのに fath を使ってない。そして、haram 。
 ⇒AHF:ハラルとは
 こういうのは日本人にはわからないですよ。
 そして、キリスト教っていうのも日本人にはわからないんじゃないかとも思った。私がわかっているとかいう意味じゃなくて。

確かに非現実的かもだが

 ⇒長崎市 核攻撃への対応を除外 : NHKニュース

武力攻撃を受けた場合の自治体の役割を定める「国民保護計画」で、被爆地の長崎市は、政府が示す核攻撃への対応は非現実的だとして、計画から核攻撃への対応策を外すことを決めました。
(1月31日 16時4分)

 より詳しく⇒長崎市 核攻撃への対応を除外 : NHKニュース
 ぶくま⇒はてなブックマーク - NHKニュース 長崎市 核攻撃への対応を除外