今日の新聞各紙社説は…

 テーマはなし。
 うだうだ書いたので総括もなし。

●日経社説 説得力欠く朝日新聞の「総括」(

 しかし問題となった朝日の記事は、NHKの体質とは切り離して事実関係の点検がなされる必要がある。記事の見出しは「中川昭・安倍氏『内容偏り』」「前日、幹部呼び指摘」などとある。総括報告によれば(1)中川氏が放送前日にNHK幹部に会った(2)中川、安倍両氏がNHK幹部を呼んだ――については「直接裏付ける新たな文書や証言」は得られていない。両氏は2点を否定しており、少なくとも「前日、幹部呼び指摘」は根拠を失う。この点は記事の重要部分だが、総括報告は「記事を訂正する必要はない」とする。
 元NHK放送総局長に対する取材の録音の有無に関しても総括報告は触れていない。朝日新聞社が「社内資料が流出した可能性が高い」として調査を始める「月刊現代9月号」の「証言記録」にある詳細なやりとりは録音記録の存在を示唆するが、同社は「取材過程は明らかにしない」と確認を避ける。仮に無断録音がなされたとすれば、取材倫理にかかわる重大な問題になる。
 「あの取材であれば『NHKがお伺い』とは書けたが……」といった自己批判も朝日社内にはある。有識者委員会の結論は秋までかかるという。朝日新聞社に必要なのは、読者のだれもが納得する説明であり、決着を長引かせることではない。

 そのあたりはフツーの人の感覚でもあるだろう。
 この辺り、朝日を擁護する必死勢力、かなり、おかしいよ。

●日経社説 光回線活用で放送デジタル化に弾みを

 こりゃまた醜悪なものを読んでしまった。

●産経社説 企業の非上場化 安易な決断も危機を招く

 パス。産経が言うよではある。

●産経社説 皇室典範会議 日本の将来見据え結論を

 ああ、馬鹿が来ましたよ。

しかし歴史上には、比較的「遠い血筋」から皇統断絶の危機を乗り切った継体天皇の例もある。旧皇族の中には今でも「宮様」と呼ばれ、敬愛を集めているケースもあることを考えれば、国民の理解が得がたいとは言い切れないだろう。

 多面的に馬鹿という以外ないな、こりゃ。
 継体帝の王朝はよくわからないというか、あの系図はいったいどこの王朝なのか。
 まともな歴史の感覚があれば、日本史学は推古帝以前はゼロ。書紀は基本的に偽史だ。というか、ただのイデオロギーだ。くだらね。
 史実の時代になっても、いろいろあった。桓武天皇と百川の歴史とか産経の馬鹿たれは知らないのだろうか。
 ま、馬鹿にあてられて当方もトンデモを書くのだが、天智帝は書紀を子細によめばそのクーデター時に「韓子」としてあり、百済王家の遺民だろう。百済が滅んだので、政権というかそんなものを近江でつくりあげた。この時点での他の王族はどうなっていたのかよくわからない。たぶん、蘇我が王家であったことだろう。
 天武の出目もよくわからないが、総じてみれば、唐側の要請で、天智帝の王家は抑制され、そのテクノクラートが天武暗殺(暗殺でしょ普通に読めば)の王家に流れ込み、書紀の偽書というテクノロジーを残すのだが…ま、その王家もいまひとつわからない。長屋親王というのだから、高市皇子は帝位にあったのだろうし、これが、「持統」の正体であり、統を持すというのは天智系を指すのではないか。
 ま、しかし、書紀が実質完成し藤原レジームが確立するなかで、レジームのシステムが権力それ自体なったので仲麻呂とか孝謙帝のような珍妙なものが出現したのだろう。いずれにせよ、孝謙帝は父聖武から奴婢に帝位を譲ろうがかまわんと言い出したのだから、この時代の天皇の本質が伺い知れる。
 そして、ごたごたして百川が、天智の子、施基皇子の子、白壁王の子山部親王を帝位につける。うだうだ言うこともないが、山部親王のオモニは高野朝臣新笠(百済系)である。今でいう在日である。ま、白壁王もかく見るに百済遺民であろうから、ベストマッチングである。
 天皇家とはそんなものである。
 天皇家の意義はだからそんなところにはないのだし、産経が息巻くような伝統など、江戸時代以降、明亡命者のイデオロギーでできた幻想に過ぎない。

●毎日社説 被害者名発表 判断は警察任せとは暴論だ

 これも基本的に賛成。警察が非常に問題だ。

●読売社説 [公務員人事]「情報公開に逆行する公表制限」

 これは賛成。公務員は純粋に私人ではありえない。

●朝日社説 戦争を知る あちこち行きませんか

戦争に関する施設は、埼玉県平和資料館、川崎市平和館、立命館大学国際平和ミュージアム京都市)、大阪国際平和センター(ピースおおさか)、広島平和記念資料館長崎原爆資料館沖縄県平和祈念資料館など全国にある。

 これらをきちんと当たってみると(カネの流れってこと)おもすれーだろうなっと。

 戦争の時代を生き抜いた人たちは、いろいろな質問にこたえてくれるだろう。戦争をした米国やアジアの人たちがいたら、彼らの声も聞いてみるといい。

 執筆者、その経験はおありか?
 「アジアの人」か。朝日のポンツク頭だとその反意語は「日本人」なのだろう。日本人=戦争しかけた=悪人、VS、アジア人=戦争被害者=無実。
 かくしてモデル化されたダイコトミーから抜け落ちるたくさんの人々。
 何よりの欺瞞は、沖縄人を日本人にしたことだ。西洋史の普通の感性で考えれば、沖縄人は日本人ではないなどなど。
 日本はなめらかに広がっていて、その境界によって人が区別されるわけでもなかった。
 だが、そのダイコトミーを華僑は必要とした。そして華僑が膨れて今の中共になってしまった。かつての華僑は周りを敵に囲まれていたからそうしたプロパガンダが必要だった。情報で身を守るのが悪いわけでもない。だが、巨大化した華僑ともいうべき中共が周りを敵に囲まれた意識を持つのはどうかとは思う。いや、つまり、彼らもかつての華僑のように恐れているということだ。
 もう一つこのダイコトミーを必要としたのは連合国だ。そして、その連合国とは、米国であり、またコミンテルンだった。後者だがそんなものがまだ歴史に残っていると考えるのはトンデモかもしれないが…昨今世界を眺めてみてもそうでもないのかもしれない。
 コミンテルンとは考えようによっては近代西洋が必然的に生み出した憎悪そのものだ。そしてその憎悪はまた別の息子を育んでいる。
 日本はなにができる? 近代化には成功したのか、失敗したのか。
 西洋の文明に対立できる高度な文明成果はもはやここまで朽ちていくのか。日本万歳とは思わない。日本の底力はどこにあるかとは思う。戦争であれだけ殺されてしまったのだからこの国民が蘇るにはまだまだ時間がかかるのかもしれない。天皇制のために皇族を復権せよというトンマな輩がいるというのは、戦争に本当に負けたことが骨身にわかってないのだ。
 死期が近づく人生となり七生報国ではないが、どう日本に私は貢献できるかとも思う。身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂。日本人というのは、いやどの国民というのもそうかもしれないが、およそ民族精神とは死霊である。死者たちのこの国に残した思いがミームとなってこの私が蘇生したのだ。それは呪縛でもあるだろうし、そうした死霊から人は解放されるべきかもしれない。ただ、私の人生にその解放はないだろう。そして、私もまたその死霊に加わりつつもある。この問題は、単純な思想のマントラや宗教的な観念では解決がつきようもない。そこだけはここまで生きてみて、わかった。

●朝日社説 郵政民営化 法案を可決すべきだ

 いまさら。

話題のジョッブス様のこれだが

 これ⇒PLANet blog.: スティーブジョブスのスピーチ

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 確か、私の記憶では、スティーヴは20代前半でいちど結婚していて、もう30歳くらいになる娘がいたはずだが…。
 ま、それはさておき。

私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 これのミレニアムは私の書架にもあるはず。HyperCard的な文化だった。
 で、サビのこれ。

未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

 これは常に結果論ですね。
 サバイブしているというだけでなんらの勝利者
 だけど、彼も縷説しているわりにはいまいち明確ではないけど、死はそれをすべて断ち切る。
 「道草」ではないけど、人生片づくことなんかなんもない。
 ただ、死がそうであるから、人と違う生き方というのは裏打ちされているというのはあるかもとは思う。
 それにしても。
 多数の人は、社会という側面では、人生に失敗する。そうできている。
 自分の人生に意義を与えたいものだが、それは、常に結果論。でも、それは、たぶん、とてもパーソナルなものだろう。
 山本七平「静かなる細き声」に、罪人をかくまって暴行を受けそれが原因で失聴し、そしてその失聴が原因で事故死に至った人の話がある。山本は彼は幸せであっただろうという。こういうところにまたしてもクリスチャンというものがばっくり虚無のような意味のようなものを投げかける。彼らの信仰に従えば、主の奴隷でもあるのだし、失聴以外の選択もなければ、それが与えられた人生でしかないし、それは主の祝福とはまるで無関係でもある。
 多くの人がヨブ記を誤読するように思うと言えば僭越か。あの祝福のエンディングは後世の付け足しで、ヨブは灰のなかで病苦にのたうち回って死ぬ。なぜその苦しみがあるのか。彼は西洋人のように神はいないのかとは問わない。なぜこの苦しみがあるのかと神に問うだけだ。苦しみに意味を与えたいのだ。そして、神はそのなぜには答えない。
 ヨブ記の神はヨブの苦しみにヨブが願う意味を与えない。
 この神はヨブにお前の創造者は誰かと問い、そして、ただ自由の意志をもって従うことだけをもってサタンへの勝利とした。ヨブの死はサタンにはなく、ましてその自由もサタンにはない。
 人の幸せというのはわからない。
 棺をやすらかに閉じたいと誰もが願う。
 後世の名声を願う。
 たぶん、虚しく、ヨブの物語は長く人類に問いかけるというか、おそらく、神が問いかけているのだろうと思うところに、どうも人生には奇怪なものがある。

ヨブの苦しみには意味がない…

 人は苦しみには意味があって欲しいと思うし、つらい経験をすれば、転んでもただでは起きないではないが、なにか経験なりを得る。経験も、カネのように、人にまとわりついていく。
 ヨブの物語の決定的なことは、ヨブの苦しみには意味がないということだ。
 よくいろんな人が本当の宗教とはとか、本当の神とはとか問う。
 こういう問いがいやったらしいのは、問う人は、答えの予感を得ているのだ。それがまったく無意味な問いだとはなかなか思わない。ま、人の意識というのはそうできているのだから、しかたないのかもしれない。
 で、も、それに類するのだが。
 多くの宗教とか人生観とかは、ヨブの苦しみには意味を与えてしまう。
 私は生きてみて思うのだが、多くの苦しみにはあまり意味がない。少なくとも、意味がないことも多い。
 意味を与えてしまえば、世界を他者をその意味から眺めることになる。
 苦しむ人に、やがて、よくなりますよとか言う。
 この苦しみはいつか栄光になるのだとか言う。
 しかし、そうなるとは限らない。それが事実だ。もっとも、その事実をどう受け取るかとリフレームすることはできるが、たぶん、むなしい。
 意味は、世界と他者を裁く。それがあるようにはそれをあらしめない。つまり、私の意識は常に裁き、闘っている。しかし、それは、かなり虚しい。
 ま、生存者は常にその時点までの勝者ではある。しかし、そこにベットして人生の意味を思うことは、無意味かもしれない。