今日の新聞各紙社説は…
特にどってことない。
あるいは、朝日の「ネット社会 もろさが露呈した」が歴史に残る珍作。
レバノン問題は複雑すぎ。
●日経社説 国会審議通じ、より良い郵政民営化を
そうじゃなくて、原則を確認して責任与党の体勢を整え、そしてそしてそして…を窓外抛擲!
●産経社説 小泉政権5年目 改革の理念を結実させよ
無内容。
●産経社説 大惨事脱線事故 疑念はふくらむばかりだ
置き石はないことにしたい。ま、ないのかもしれないが。
●毎日社説 民主憲法提言 まだまだ議論が浅くて薄い
パス。
●毎日社説 連戦氏の訪中 国共会談から中台対話に
恥。
●読売社説 [シリア軍撤退]「レバノンの新時代が始まるか」
何が言いたいのかわからん。
この問題でウータンは愉快なお話をしないのか。
●読売社説 [小泉政権4年]「残る任期になすべき課題は多い」
無内容。
●朝日社説 ネット社会 もろさが露呈した
これ、なんだろ。
企業の中には障害の原因を自力で見つけて解決したところもあったが、一番困ったのは個人の利用者だろう。
おまえさんたちでしょ?
個人でできる最低限の防御策は、パソコンを使わないときは「シャットダウン」の操作をして電源を切っておくことである。ウイルスなど電子的な攻撃はパソコンの力を借りて入り込む。電源を切っておけば、入りようがない。
ネット社会のもろさをよく知ったうえで、パソコンを使いこなす。その大切さを今回の事件は教えてくれる。
これ、なんでしょ?ってさっき言ったか。あぼぉぉぉん。
●朝日社説 民主党 目の前の課題で戦え
どうでもいいのだが、朝日的には、小沢ではなく岡田という建前で踊ってみたいところのなだろう。中国様はそのうち、小沢を指名するかも。
脊髄反射的な批判ではないがこーゆーのが武田徹とかとかについていけないところ。
⇒弱さについて 投稿者: 武田徹 投稿日: 4月26日(火)22時29分4秒
ちょうど一年ほど前、2004年ジャーナリストコースの告知パンフレットを書いていて、養成されるジャーナリスト像のひとつに「弱者の声に耳を傾けられること」を挙げた。これは当時のスタッフに不評だった。戦後民主主義っぽいというか、プロ市民っぽい甘ったるさを感じていたのだろう。
なぜ弱者の側に立つべきだとぼくが考えていたのか。カッコつけるなら、たとえばロールズをひいて「社会経済的不平等を認める場合の条件として、それらの不公平が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること」は正義として認められるからとか言えば良かったのかもしれない。しかしぼくの考えはもう少し泥臭かった。
弱者は適応力に乏しくて(それは単純に能力的な問題ではなく、やり方が違うとか、達成に対する価値観が異なるとかといった理由に起因する適合障害である場合が多い。しかし適合出来ないからこそ弱者なのだ)共同体に負担を強いたり、危険をもたらすことも多い。だから排除されたりされがちだが、そうしたい欲求に耐えてあえて弱者を内部に抱え込み続ける。もちろん合理的に考えれば得な選択ではない。
ここでは「弱者」がメタ。
もちろん、武田徹のことだから請われれば、「弱者」の定義をしてくれるのだろうなと思う。
ただ、そうした、「弱者」の規定が問題なのかという、問題フレームワーク自体への疑問はどの位相になるのかわからないし、その規定の装置の多様性に、フーコーのような視点がどの程度組み込まれるのかもわからない。なんとなくだが、武田徹の文脈から感じられるのは、規定それ自体にすでに政治を含んでいる点だ。当たり前でしょとか言われると絶句するのだが、つまり、また「政治」とはから問題になる。…というところで、やれやれ感が漂う。
当面の問題としては、「弱者」を問うのではなく、個別のある集団を問わなくてはなららない。そうした思想の営みのなかから、弱者を逆に社会構造側に反照されるような知の営みが重要だと思う。
ちょっと筆を滑らすのだが、私が、リバタリアンとかの議論に、ますます関心を失ってきているのは、それがメタ回路になってしまって、それ自体が、状況から逸脱していることだ。もちろん、リバタリアンとかを議論するなとは到底思わない。どうぞ。学問的にも意義はあるだろう。私は関心があまり持てないというだけ。(例のユリイカ的なブログ観にもほとんど関心がもてないのも、似ている、が、私が言うと誤解されるだけだし、批判しているわけではない。わずかに批判的に言えば、自己相対的にそれが語れない=浮いているあたりの先験的な優越性みたいなもを感じる点だ。ブログはまさにその語ることの先験的な優越性みたいのを壊していく運動ではないかと思う。)
というか、状況的問題は、つねに、「私」を状況に還元する「力」と「私の意思」との齟齬から発する。そこだけにしか課題がない、か、そこだけにしか課題がないというまで「私」が問われなくてはいけない、と私は考える。
人生論にしたいつもりはないが、すべての「問題」は、「私の生きがたさ」に極まる。そして、私がなぜ生きがたいかといえば、私が生きたいと願うがためであり、それを避けるには、願い=意思、を抹殺するか、私を抹殺すればいい、そうすれば、何かが幸福に生きるかもしれないし、死ぬかもしれない。
アランだったか、すべての意思は対向する、だったか。人が意思として存在するなら、すべての条件は本質的に生きがたいものとして現れてくる。問題は、この意思の普遍性と生きがたさの普遍性であり、そこで、つまり、嗜好=オタ=至福、ではない、社会と思想と善の問題が生じる。
という場は、ようするに、私を完全に状況に還元させる地点だ。私の存在は完全に大衆でありその原像を組み込むかたちで状況と一体化し、そしてそこで意思だけが知として生きがたさと問い出すとき、そこにだけしか、思想なんてものはありえないし、そこで生きがたさとして出会う人生の運命というか必然の過程でしか、「弱者」なんてものは出てこない。
ある時、ある「私」は最愛の人を不可解な事故で失う。それはある意味で、古典的な意味で運命かもしれない。人はそうした運命を受け入れるしかないかもしれない。だが、その事故の不可解さに、社会の意図、が含まれていたとき、つまり、私の愛を社会が抹殺しようとするのを意思が拒絶したとき、すべての思想が始まる。
そうした状況と「私」の関わり、あるいは関わりのなさ=大衆の原像、というものがないところに、問われるべき課題などない。
そして、たぶん、そうした課題のもっとも大枠にあるのは、ニーチェの言うルサンチマンの問題だと思う。怨恨的な被害性というか、そのような形で、自己の意思を正当化させること絶対化させることに、ニーチェは最大の欺瞞を見た。というか、それはその人がよく生きることを不可能にさせる宿痾であるとした。
その宿痾に向き合うことができるなら、人はよく生きられる、知は悦ばしいと、ニーチェは考えた。
私は、率直に言えば、それを十分に受け止められるわけでもない。
私にはそうしたメタな部分はあまりよくわからないということかもしれない。
中国繊維問題が大きいのだが…
⇒カワセミの世界情勢ブログ: EUと中国の繊維産業貿易摩擦
と、カワセミさんの論旨がわかりやすい。ただ、私などもそうだが、政治のフィールドに持ち込みやすい(逃げ込みやすいというべきか)。
この問題で、マクロ経済系の人がどういうビジョンを出しているのか気になるのだが、れいのスノー発言同様、なかなか見えない。
ネットのマクロ経済議論は特定分野に偏っているような印象もある。と、これは批判ではないので、うんこはご勘弁。
石油周りは自分でもなんとなく見えつつあるのだが。
民放株式持合い問題、もうちょっと書いてくれぇ
⇒FPN-何かおかしい 民放株式持合い案
やばいのか。
陳腐になりすぎか。
地上デジタルとかのあるし。
(……→と電波を送る)
追記⇒[R30]: 在京キー局の株持ち合い問題をIR的に考える
スクリプティングにもいろいろあるが…
⇒スクリプト言語人気に思う,動的型付け言語の可能性 : IT Pro 記者の眼
インタフェースをがっちり決めて,これはAPIだから変えるな,というのは無理がある」と感じているという。
データ設計までインタフェースに含めるのは違う!とか言われそうだが、広義に含めてしまうと、実稼働するまで、え、それはないでしょっていう設計段階のことがわからないことが多いのではないかと思う。
ってか、昔は、プロトタイピングとかよく言われていたが、そのあたりどうなんだろうか?
カーニハンとかが「プログラミング作法」で言ったことあたりが、共通リソースに対するスクリプティングの位置、というのはあるのかもしれない。
ま、もっと、ドベタな次元の問題がありそうでもあるが。
ブログの可能性…
ブログってブームとしては終わったのかと。そうかもしれない。
ただ、ブログというか日記というか惰性というか書いているのだが、うまく言えないが、メディアなんかどうでもよいと思うようになった。
ブログでの心というか魂というか交流はどうでもいいとは思わない。しかし、そこに魂の孤独みたいなものと関わるなにかは、すごく少ない。幸い、私の魂というかは、神に感謝すべきか、救われているように思う。
それでも、自分がブログとやらの可能性に賭けないなら、可能性を言うのも虚しい。賭けは身銭を切ったものだけのものだ。たぶん、生きるということもそうなんだろうと思うし、特に変わりない。
あと……、ちょっと思いが残るがうまく言えない。
どこの国にもばかはいるが…問題はその割合と影響力…
このあたり⇒【コラム】趙英男氏が親日派なのか
考えさせられる。
日本人は幸いにしてか不幸なのかあまり島から出ようとしない。
しかし、朝鮮だと出るしかないなという人も多いだろうと思うし、所詮、人間、大半は、晩年が近くなるにつれ、自国の文化伝統とは切り離されず存在していることに愕然とする。
と、書くと誤解されそうだが。
席を譲らなかった若者の話
⇒らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者
その余波⇒らくだのひとりごと: アクセスが…
ま、そゆこと。
スリランカの鉄道事故
⇒BBC NEWS | South Asia | Sri Lanka rail crash kills many
事故死のかたにお悔やみ。
なんか、こうしたニュースが気になる。
比較的よく見る欧文ニュース
Washington Post
⇒http://www.washingtonpost.com/
New York Times
⇒http://www.nytimes.com/
VOA: Voice of America
⇒http://www.voanews.com/
Salon.com
⇒http://www.salon.com/
BBC
⇒http://news.bbc.co.uk/
Financial Times
⇒http://news.ft.com/
Telegraph
⇒http://www.telegraph.co.uk/
The Moscow Times
⇒http://www.themoscowtimes.com/
オーストラリアのアンデック・デー
平野さんのブログ⇒アンザック・デー2005:オーストラリア・シドニー海外生活ブログ
いろいろためになります。