毎日社説 国総法改正 国主導の開発に終止符を

 この問題は重要だが…それだけ難しい。

 突き詰めれば、国がトップダウンで進める国総法体制は成熟経済、地方分権の下で時代遅れだということだ。

 そう言ったら、おわり。

はてなQ 1. 文科系と理科系の本質的な違いは何なのでしょうか。

 但し、実験できるか否かという観点は除いてお答えください。
 なお、回答にあたりあなたの専攻を付した上でお答えください(というわけで、本質問は、高校卒業者を回答希望対象にしたものではなく、大学卒業者をそれにしたものです)。

私法を専攻して卒業する見込みだが、上記の本質がどういうものかを今ひとつよく分からずにいる者より

 高校時の進路の違いではないのか。
 大学進学率は30年くらいはそんなに高くなく、文系は官吏・管理職、理系は産業・開発という就職の便宜だったのだろう。

善悪の認識と行動について…

 と難しい話をするわけではない。
 私は、善悪の認識と、行動に、なにか、すぱっとふっ切っているものがある。
 というか、善悪の認識という認識と、行動という形式の認識があるのだというふうに考えている。
 実際上の生活の場では、つねに後者がだけが問われる。そしてその後者の行動としての認識は、まさに、瞬時に、いかなる迷いもなく行われる。
 そこに迷いがあるとき、行動にゆれが起こり、いわゆる善悪の認識の問題が起こる。
 というか、つまりは、それは身体性の分離だろうと思う。
 行動という認識がいかなる迷いもなく遂行されればいいのか、と、いえば、狂人もまたそうであろうし、およそ、他者の行動への言葉の問いかけも無意味になるのだろう。
 が、この点についても、私は、基本的に、やはり行動の立場ととる。というのは、認識ではなく、ある種の情というか、熱意というか、その内在のなかに行動の認識が包含されるように思う。
 何が道徳であるか?
 我々はどのように発言しうるか?
 それらと行動(という認識)にはなにか抜本的な乖離があり、自分はいつのまにか、陽明学というか禅のような立場に立っている(それはある意味で超越であるのだろう)。

意識とは迷いであり、愛の認識とは虚偽である

 と、また偉そうな話をしたいわけでもない、と照れておく。
 生物は行動の場にあって、reflectiveな意識を持たない、というか、行動の意識のなかに行為の純正のなかに収斂されていくものだ。このあたりはなかなかうまく言えない。知行一致(知行合一)というのは、知と行を一致させるというものではない。行の内在のあかに知が純化される状態を指している。
 これは、愛にも関連している。我々は、誰かを愛するとき、ただ、愛と行為は一致している。愛せよというのは、ありえないのだ。愛せよとは命じるものであり、命じる者と命じられる者の分離がある。だが、そのような機械的な遂行のなかに愛が存在しないことを我々は直覚として知っている。
 あるいは、話がうまくまとまらないが、こうも言える。
 選択とは自由でない、と。
 選択とは迷いでしかない。
 自由の意識、人間、その行為において、いかなる選択もない。自由はただ、その自由の発現の行為のなかに純化されて、それはただ、一つの真っ直ぐな道を進むものである。
 どちらに進むべきかというとき、人は、自由を実は失っている。自由はいかなる躊躇いもないところに起きる。
 と、言葉にすると屁理屈のようだし、また、それは、機械的な動作でもそのように言えるということになるだろう。
 そこは難しい。
 致良知という問題でもある。