韓国新幹線 初日からトラブル
むしろ最初にトラブってよかったのかも。
仏内閣が大幅改造 選挙での大敗受け
右派の動向はどうだろう?
普天間移設は停滞/米下院公聴会 太平洋軍司令官が不満
同司令官が軍事委員会に提出したアジア・太平洋地域の年次報告でSACO報告の柱だった普天間移設に関し、移設計画では埋め立てだけでなく、滑走路や格納庫などを含む代替施設完成までに十数年以上かかることに不満を示すとともに、作業の加速化を促す狙いもあるとみられる。
一方、イラクへの自衛隊派遣、同時テロ後の米艦船への燃料補給、大量破壊兵器拡散防止を目的とする海上訓練への参加、思いやり予算などには「信じられないほどの支援」と、日米の協力関係を最大限に評価した。
これでドル安で大統領選が持ち越せばいいのだろうけどね。そううまく行くかな。
米国は本年度中に、代替施設に必要となる百棟を超える建物の設計概要書を提出することになっている。
キャンプ・シュワブあたりに統合?
米、国際機関による「仲裁」を提案・牛肉禁輸問題で
どこまでやるか農水省。
「「生きる力」をつける ドイツ流子育てのすすめ」
生きる力じゃなくて、ただの腕力、ドイツ人は。
米、台湾に最新鋭の早期警戒レーダー売却
回転ドア事故、全国で140件超 撤去検討の動き広がる
数値だけが一人歩きすると、社会ヒステリーっぽくなる。問題はその内実だと思う。社会に潜む危険性はこれだけじゃないのだし。歩道通行の自転車のほうが社会問題だと思う。
ミサイル防衛 新法整備検討へ
をいをい、っていう感じ。
田川建三
昔、大学でミシュナ(Mishnah)を読んでいたら、それに付いている貸し出しログに彼の自筆名があった。ふーん、田川さん、これ読んでいたのかとか思った。
ロス疑惑と吉本
原理的な問題は、もういちど、ポランニあたりから考察したほうがいいだろうな。で、ロス疑惑だ。
吉本はロス疑惑を最初から正確に見抜いていた。そして今や裁判結果も出た。文春はなんの反省もしない。ま、それを責めても無理というものだ。
しかし、思索するものは、知識人はこのくだらないように見える問題をもっと切迫したものとして考える必要はあるだろう。
ま、といいつつ、それもさておきだ。
吉本は、彼の幻想論の考えかたをベースにすると、ロス疑惑をどう捕らえていたのだろう。世論のリンチは、どうしても対幻想的な暴走でしかない。彼はむしろ、制度・装置とはいえ、それを生み出す公正な共同幻想を想定していたとしか、原理的に言えないのではないか。
彼は共同幻想としての国家を解体しようとした。また大衆の原像というのを思想の原点に置いた。
だが、実際は、ロス疑惑では、彼は、社会リンチから三浦を保護するために、国家を必要といたではないか。
このあたり、俺がバカなのかもしれないが、本質的な矛盾が吉本にあるように思う。
共同幻想性と貨幣
吉本隆明については、ある意味、もう過去の人としてもいいのだと思いつつ、自分がそこから影響を受けた部分を、吉本のコンテキストから切り離して、再定義しつつ了解し、かつ、それを公開の言葉に置き換えていかなくてはいけない。「対幻想」なんていう言葉が使えると思った私は甘ちゃんだったのだ。と同時にどれほど吉本に依存してしまっていたことか。しかも、今や状況は、理想的な形での対幻想がモデル化しづらい。
この間、正直に言うと、国家と社会の関係が自分の思想のなかで矛盾していることを痛感した。私が吉本読みを始めたのは、工場労働者に自分を置いてからのことだ。そしてその選択には吉本は関与していない。思想的な背景はシモーヌ・ヴェイユだった。後に、吉本がヴェイユに接近するのことに奇妙な、内的な必然性を感じた。ま、私のことなどどうでもいい。
吉本の共同幻想は国家幻想でもある。ただし、現状の理論では、古代国家なり、人類史が国家を形成する原理性として捕らえている。生成的にキーとなるのは、当然ながら、インセスト・タブーだ。国際的にはレビ・ストロース的に見るのが正しい。橋爪などは、吉本とレビ・ストロースとの違いを気にしている。が、私は違いはないのではないかと思う。これは、叙述の方法論の差ということだろう、かなりは。
人類が共同幻想を打ち立てるのは、おそらく、人間種に近い生物から次いでいるものであり、普遍経済的な意味で、生物全体に見られるものだ、という言い方がポランニ兄弟的で難解だが、ま、よしとしよう。
私の理解では、共同幻想が人間種に発生するのは、自然であり、それがどう幻想域で了解されるかということが吉本の労作だった。
が、吉本はそれを解体の契機として語っている。だから、当然、そこでの、つまり、吉本の文脈での「自然」で言うなら、共同幻想というは不自然な外在力になりかねない。多くの吉本主義者がそう理解する。そう理解するのはわかる。
だが、自然性はむしろ、共同幻想を作り出す側にあり、むしろ、吉本ような思想の営為が共同幻想を知の対象化するところに意味がある。と、まで言うのは難しいことはわかる。というのは、吉本はこの先に、どう見ても対幻想的なアフリカ的なるものを想定しているからだ。そこには、共同幻想が生起しない人類史の幻想段階が想定されている。
私は、そう、ここで吉本と袂を分かつしかないように思う。そういう人類史の意識の発生段階はない。共同幻想性は生物種としてしくまれているのだ、と考える。
ポランニ(カール)は、そのように展開はしないものの、普遍経済学として、「富」を想定し、それを、互酬、王による再分配、市場と見た。マクロ経済がどれほど理数系を志向し偉そうな自然科学を装っても、所詮、市場と再配分論の枠でしかない。
ポランニはこの3つのありかたを等しくタクソノミックに見ているふしもあるが、原理的には対幻想的な互酬、共同幻想的な再配分というふうに見ていいのではないか。ただ、互酬は、実は共同体間のことかもしれない。
話が交錯したが、そうした「富」の普遍性と貨幣制は共同幻想と関連を持つ。ここには、ある種の公正や正義が潜んでおり、個人幻想=個体意識を調停する機能を持つ。
あ、そうか。普遍貨幣とは、個体の側の意識の反映なのだ! つまり共同幻想というのは、つい、ある神なり、殺傷権力を担う幻想性として他者化されるように思いがちだが、それは、個人幻想の領域のなかで貨幣的な呪縛的な魅惑的なものに転化されるのだ!!!
すると、いわゆる富を再配分する王としての共同幻想性とは、むしろ、そうした富への支配として現れる。
うーむ。
当初の国家と市民の話からそれているが、このあたりにも鍵がありそうだな。
米財務長官:雇用や貿易問題についてコメント−ラジオ番組で
がんばれスノー!
桜古木
桜の美しさのひとつに古木の風貌がある。100年近くなると苔むして見事なものだ。その太い幹からそのままイタズラのように花が咲くことがあるのが面白い。桜には桜守が必要なのだろうか。気が付かないところで、桜守の役の人がいるのだろう。
安保理が国連スキャンダル調査を支持
どうでるフランス。
それとは対照的にフランスはこれまでの態度を変え、調査を支持し協力を申し出た。フランスの国連大使ドラサブリエール氏(Jean-Marc de la Sabliere)は、不正や違法行為が行われていた可能性のある以上、国連職員だけではなく契約企業へ対する調査も重要だとの声明を出した。
このニュース日本では注目されているのかな。見かけないな。
結婚することになりました/切込隊長
おめでとう。童貞ともお別れですね。
今日から朝日新聞の社説は3面に移った。
これを機にいっそう「論」を磨き、競い合いたい。インターネットや図書館などを利用すれば、他紙の社説にも接しやすい。読み比べ、ご批判や激励を寄せていただければ、なおありがたい。
エープリールフールネタみたいだな。
それで続き
コメントありがとう。
すでに漏れは、「吉本は関係ない」といっているにも関わらず、そして氏自身が上っ面で否定しているにもかかわらず、相変わらず氏は共同幻想論的な立場から論じているに過ぎない。
ええ、私は今回の問題を共同幻想論的な立場から論じています。つまり、共同幻想=国家の次元で見れば、新聞各社の社説のとおりになります。
しかし、この問題には、対幻想=家族幻想の次元が大衆の意識=社会問題として介在している。
で、この問題にはまって気が付いたのは、共同幻想性の正義の言説が、対幻想性の言説(「親がしっかりしなさい」)などを、抑圧ないし、バッシングしていく機能を持ちはじめている実態なのだ。
単純な話でいえば、「親がしっかりしなさい」と言うことがタブー視される社会状況を作り出しているということ。それは俺は危機だと思う。
今回の事件は100%六本木ヒルズが悪い。朝日新聞の社説だってかけるほど単純な問題だ。そして、この事件の親御さんには100%責任はない。これもPL法や安全技術、司法を少し知るものなら原則的にわかる。
だが、そうした共同幻想側の文脈と対幻想=家族幻想側の文脈は、独立する。
そして、後者の独立性が維持されないブログの言説のあり方に俺は危機を感じているのだ。
大衆は言説からはバカに見えるものだ。大衆は最終的に対幻想=家族幻想のなかでしか生きることができない。そして、その大衆は、言説という場で、共同幻想=家族幻想の言説に戦えるはずがない。沈黙して自分の生活を生きるだけだ。大衆の原像というものは語ることがない。
知識人の役割とはなにか。この大衆の現像から言葉を紡ぎだして、共同幻想=国家幻想の言説と対峙してみせることなのだ。
と漏れがかつて書いたのは、議論の前提として共同幻想論なんて関係ないじゃないか、という意味だけでなく”漏れにとって”は吉本なんか評価する価値もないよ、と言っているのである
それはまったく構わない。吉本の議論などフォローする必要はない。そうでなく、吉本が提起したこうした構図と社会の言説をどう理解するかということなのだ(それは戦後思想史の継承でもある)。それを、吉本なんか関係ないからといって、「反資本主義活動等非常取締委員会」はきれいに切り捨てているように見える。
きれいすぎるのだ。
だがこの事件が大衆社会にもたらした影響はそうきれいなものではない。大半の母親たちは、「ちゃんと子供の手を引こう、でも、それを言うのはやめとこう」という心情に追い込まれた。つまり、このきれいさというのは、語ることを抑制さした索漠とした光景でしかない。
そして、氏の論理は吉本の理論上の欠陥に起因する破綻だけでなく、氏自身に起因する破綻も存在する。第一の問題点については、議論と漏れに対する個人的感情が分離できていない点だが、これについては多くは述べる必要はないだろう。第二には、以前も触れたが「国際問題を自己の国家幻想に投影し論ずることとは偽善である」と断じた人が、事に「親が悪いよという感性」になれば対幻想の延長たる独立領域にあって偽善ではないと言えるのか、だ
問題点の1については、四月馬鹿として受け止める以外はない。つまり、「多くは述べる必要はないだろう」ということ。2点は、誤っている。
「国際問題を自己の国家幻想に投影し論ずることとは偽善である」は個人幻想の領域である。そして、それは対幻想の世界とはまた独立しているのだ。
もちろん、それを理解しろということは、吉本を理解しろというに等しい。そして、俺がそう言っているように聞こえたかとも思う。というか、それは俺より上の世代の闘争を通してえた経験則でもあった。
が、それが通じないということはわかった。そしてそれを理解しなければならかいかのように議論を展開していることは、俺の誤りであるという指摘は正当だと評価できる。
で、問題はこの記事の前段に戻る。なぜなら、吉本理論が問題なのではなく、吉本が提起したことが問題だからだ。
だいたいが、大手新聞社説が雁首ならべて同じきれいごとしかいわない、それでいて大衆の意識が乖離している社会の言説の状況をどう知識人は受け止めていくのか。
つまり、そこを齟齬として受け止めなければ、知識人は国家幻想のなかに飲み込まれていくのだ。
社説が雁首ならべてきれいごとを言うときは、社会言説は死んでいるという指標にしてもいいくらいなのだ。(しかも、今回は各紙ともひよってひよって正論が出てきている。)