朝の時間

 早朝目が覚めることが多く。所在なくニュースを眺め、そして、その延長にネットのニュース動向などを見ていると、ついネットの情感とでもいうのか、その雰囲気にのまれてしまう。これをいいように取り込むのがTwitterなのではないか。というわけで、だらだらとTwitterをする。誰かと対話しているような錯覚も得やすい。

 こうした、Twitterのようなメディアが交流する前は、私は、この日記にぐだぐだと呟きを、この朝の時間に書いていたなと思い出す。

 

 今朝は、昨日挙げられなかった記事をブログにあげて、さて、とニュースやTwitterなどを見る前に、ふと、この日記のことを思い出し、思い出すだけはなく、書いてみることにした。

 

 できることなら、朝の静かな時間は、ポール・ヴァレリーのようにカイエのような思索に投じるほうがよいだろうと思いつつ、カイエが手書きで、しかもフランス語だからなしえたことなのだと思う。

 この要素は意外に大きく、森有正などもフランス語でなければ日記がかけなかっただろう。

 

 手書きでもなく、フランス語でもないなら、これはなにか。といえば、よしなしごとを書き綴るという我らが伝統になるのだろう。

 

 桜が散り始めた。というか、よく4月の半ばまでもったものだ。

 

 曰く。

 

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも*、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。